息子は出産時のトラブルで呼吸が止まってしまったことが原因で
脳性まひという診断を受け、リハビリを始め、障害者手帳保持者となった。
障がい者として生きていくためにはどうしたらいいのだろうか?

と途方に暮れ、わからないことばかりで不安がいっぱいだったが、
まず目の前の今をどうしたらいいかを考えることが精一杯で過ごしていた。
まず第一に優先したことはリハビリだった。
息子の成長の様子を見守っているのでなく、できるだけ早くリハビリを行うことで少しでも変わるのではないか?
時が経ってしまい、あとから後悔したくなかったのでできるだけのことをやっていこうと思っていた。
ボイタ法の神業のセラピストとの出会いが、息子の運命を変えた最大の幸運だった。

第二に考えたことは、健常児との生活だった。
私は幼稚園 保育園で働いていたので、乳幼児期にどれだけ子どもが成長し多くの刺激によって伸びていくかを実感していたので、
健常の子たちとの生活の中で友達からできるだけたくさんの刺激を受ける機会をつくり、
見たり真似したりやってみたり失敗したりする経験をさせたいと考えたことだった。
保育園ではハイハイでお友達のあとを追いかけ、
幼稚園の入園式にやっと歩けるようになったくらいの状態だったが、
皆と同じように入園させていただくことができ、
息子はみんなと同じようにやりたい! どうやったらできるのか?と、
友だちや周りの人の動きをよく見る子になった。
幼稚園の頃はまだ自分に障がいがあるということはなにも感じていなかったそうで、
どうしてお友達はできるのに僕はできないのだろう?
もっと練習すればできるようになるかもしれないと、
いろんなことにチャレンジしていた。

この頃の生活が、息子のやる気 負けん気を育んでいたのだろうと今になって思う。
第三に考えたのは就学問題だった。
特別支援教育が始まったのは2007年からなので、
息子が小学生に入学する時には支援学級などはなく、
地域の小学校に入学し、子どもができないところは親が同行して待機していてサポートするというのが通常だった。
息子が今後生きていくために必要なことを身につけるためにはどうしたらいいだろうか?
健常の子達との小学校生活の中で
生きる力や学力を確実に身につけられるところはないだろうか?と思っていた。
たまたま昔、私立の小学校で教育実習をした経験があったので、
私立小学校が少人数で丁寧な指導をしてくださっていることは解っていたので、
地域の公立の小学校へ行くことを考える前に、まず相談してみようと考えた。
息子が幼稚園へ通う道中の赤い屋根の私立小学校を3年間毎日見ていたので、
とにかく息子を連れて見学に行き相談してみようと行動した。
教頭先生に障がいがあるから受け入れないということはありません、
という前向きな回答をいただくことができた。
しかし入学試験はあります、ということで
息子はこの学校に行きたい!という気持ちをもっていたので、
試験に向かって頑張る気持ちがもてたおかげで無事に入学することができた。
この学校で身につけた基礎学力、意欲が息子の公務員試験に挑戦する基盤になったことは間違いないと思う。

先生方のきめ細かな指導により、
障がいがあるからといって妥協することなくしっかり教えてもらえたことが
一番良かったことだと振り返って本人がそう言っている。
就学問題は、中学、高校、大学へと毎回とても悩んだ。
その時点での息子の状態をみて、この様子ならどのくらいの学校にいけるだろうか?
と親は心配になるが、中高大学への道は本人の希望を第一に決めていった。
特別支援学校を見学に行ってみたこともあるが、
息子は絶対にイヤだ!と言った。
今までもできないことがたくさんあり悔しかったり葛藤したりすることも多くあったと思うが、
なんとか健常の子たちと生活してきた息子にとって、
障がい児だけで守られた支援学校の生活には魅力が感じられなかったようだった。
親の役目は子どもに合う学校の情報を調べ、実際に見学してみて学校の雰囲気を肌で感じて、
本人が目標を決めて、そこに向かって頑張る気持ちを応援することに徹することだった。
健常の子どもが行く学校へみんなと同じように行かせようとは考えなかった。
どんなに回り道をしても、みんなが普通に選ぶ学校とは違っていても、
息子が将来自立して生きていくために身につけなければならないことは何か?
障がい児にとって勉強することが全てではないと思っていたので、
学力が重視の学校ではなく、
まずリハビリに通えることが第一で、
生きていくうえで取得できるといいと思われる資格をとったり、
目標をもってやっているサッカーや空手を続け、
やりたいと思っていることがサポートしてもらえる学校を考えて選別していった。

「あきらめずに一歩ずつ進んでいけば、夢は叶う」
「オンリーワン 唯一無二をめざす」
ことを理念に掲げ、
校長である登山家の三浦雄一郎先生が身を持って生徒に示してくださっていた。
オープンキャンパスで面談の先生に
「今まで障がいをもったことを大変だとか辛いと思ってきたと思いますが、
ここまで頑張ってこれたことをこれからは『売り』にしていけばいいですよ。」
という励ましの言葉をいただいた。
目から鱗がおちる言葉で、私と息子の考えが180度変わるくらいの衝撃だった。
この言葉をいただけたことが`息子の公務員への道`の第一歩だったのかもしれない。
こんな考えをしてくれる学校を信じ息子はAO入試を受け、
障がいをもち頑張ってきたことを作文や面接で伝えて無事合格することができた。
大学進学も多くの推薦枠をもっている高校だったので、
リハビリ、サッカー、空手を続け、
大学のAO入試時も障がい者として頑張ってきたことや、
障がい者としてこれからやりたいことを小論文に書き合格することができた。
息子の作文力は小学生の時の宿題の毎日の日記、
6年生になったら原稿用紙100枚以上書くという`生い立ちの記`のおかげで自然と身についていた。

小学生、中学生の頃はまさか大学にいけるかどうかなどと考える余裕もなく、
親子で今を必死に頑張ることで精一杯だった。
順調に就職できたわけではなく、挫折もたくさん経験してきた。

息子の小さい頃からの本当の夢は、
自分の身体を治してくれているボイタ法のセラピストが憧れだったので、
理学療法士になることだった。

高卒後は理学療法学科へ進学したいという目標をもって専門学校をめざしていたが、
障がい者が理学療法士になった前例がないということで断念しなければならなかった。
それでも障がい児者に関わる仕事がしたいという思いをもち、
福祉大学に入学し、卒業でき、
就職する時はコロナの全盛期で、福祉施設の見学や面談などがほとんど行われていなかったので、
どうするのか?と心配していたところ、
息子もいろいろ考えたようで、公務員試験を受けたいので勉強したいと言い始めた。
とても難しいことでそんな簡単なものではないと親は思っていたが、
自分ではなかなか難しい数的処理などの速さを必要とする科目のコツを教わりたいと、
自分で塾を探して通い無事合格することができたのである。
面談や自己アピールでは、
赤ちゃんの時からリハビリを継続してきたおかげでなんとか普通に生活できるようになったこと、
サッカーや空手を続けてきて得られたこと、
障がい者として生きてきて大変だったことや良かったことなどを、悩んでいる障がいをもった県民に伝えたり、相談にのってあげたいこと
などを話したそうだ。
障がいをもっていても`やれるかもしれない``やってみよう`
という気持ちをクラーク高校で教えていただいた通り、
`障がいを売り`にして県職員に合格でき、
まさかの大逆転をすることができたのである。
このようになるとは誰も思ってもいなかったことで、
障がい者として一つ一つの難関、壁を乗り越えてきたからこその
息子へのご褒美なのだと思っている。
障がいを持ち悩んでいる子やお父様お母様にアドバイスするとしたら、
・他の人とは比べず今何を身に付けさせてあげると少し生きやすくなるかを考えてあげること、
・子どもが好きなことを見つけて継続して極めるまでやらせてあげることが必ず自信になっていくと思う。
・どんなに回り道をしても決して無駄ではないこと。

一人一人の苦しみや頑張り、乗り越えてきたことを`売り`にして、
障がい児者がもっともっと認められる社会になってほしいと願っている。
障がいをもっていても大逆転できる方法が他にも必ずあるはずだと思う。